野口悦士さんインタビュー


サーフィンに、のめり込み過ぎて・・・

花田: 野口さんが焼き物の世界に興味を持ったきっかけは何だったのですか。(以下 花田-)

野口: 大学生の時にサーフィンにのめり込みすぎて、サーフボードの工場でアルバイトを始めました。
そうしたら、サーフボードを作る仕事がとても面白くて、そこで「職人仕事」に興味を持ちました。

-: 最初はサーフボードだったのですね。

野口: あれ、中身はポリウレタンで、形を削り出していくのですが、同じデザインでも、職人によって、結構違いが出るんです。
ラインやエッジも、人によってニュアンスが違ってくるのが面白くて、そこは今の仕事と似ています。
うつわも、きれいなラインやシャープなエッジに目が行くというか、そういうものが個人的に好きです。

-: その工場は、最初から作らせてくれるのですか?

野口: とにかく作る仕事がしたかったので「勉強させてください」って言って、最初は無給でやっていました。
始めた頃は、言われるがまま、修理の仕事をさせてもらっていました。
ショックだったのが、修理に慣れてきて「よし、できた!」って先輩に見せたら、ケチョンケチョン・・・自分では100%平らにしたつもりだったのですが「なんだ、ボコボコじゃねえーかよ」って・・・
当時、自分には平らに見えていたんです。
あとで分かったことですが、手も目も慣れていなかったということです。

-: サーフィン三昧の大学生活・・・

野口: 学校の勉強は全然していませんでした(笑)。

-: 当時のありがちな大学生生活ですね。
僕も全く人のこと笑えません(笑)。



行って気づくこと、行って得られるもの、行って始まること。

野口: 卒業後、進路に迷っていた頃、図書館の本で種子島に焼き物(注1)があることを知るんです。
その瞬間からもう頭の中は種子島一色(笑)。
種子島なら、サーフィンしながら、仕事できるし(笑)。
中里隆先生のインタビューも面白くて・・・。
先生も手探りで始めて、種子島のあのスタイルを築き上げたんです。
その部分に興味をそそられました。
唐津や信楽、備前のように、ある程度固定的なものがあるのではなく「新しく生まれた」ところが好きでした。

-: それで種子島に渡るわけですね。

野口: いてもたってもいられず、とにかく行きたくなってしまって・・・。
図書館にあったタウンページで住所調べて、連絡も取らず・・・。

-: で、行って気付くわけですね。

野口: はい・・・(笑)。
中里先生はもう種子島を去った後でした。
更に、経験もなくどこの誰かも分からない若造が、相手にされるわけもなく・・・。

-: ただ、種子島に来てしまったことは事実・・・。

野口: 来てしまったので、なんとかしなければいけない。
とにかく「勉強させてください」の連呼ですよ。

-: 出た(笑)。
サーフボードの時と一緒ですね。

野口: 粘っていたら「君、チェーンソウは使えるか?」って聞かました。
ほとんど使ったことなかったのですが「使えます!」って思わず答えてしまい・・・

-: そこでそう答えなえれば、野口さんじゃないです(笑)。

野口: まあ、そんな感じで種子島での生活が始まりました。
最初は土も触らせてもらえませんでしたが、ちょっとすると朝晩に土練りの練習をさせてもらうようになりました。
その内、ロクロも独学で練習を始めました。
ただ余りに我流だったので、1年経ったくらいのころちゃんと勉強したくなってきたんです。

-: それで?

野口: 唐津の中里先生に手紙を書いて訪ねていったのが最初の出会いです。
「もう弟子をとっていない」と言われてしまったのですが、隆太窯に弟子入りすると必ず練習する最初の小皿をろくろから切り取って「これを練習しなさい」って渡してくれたんです。
帰ってきてからその小皿を練習しました。
その後は何回か太亀さんに窯焚きに誘われたり、一緒にご飯食べさせてもらったり、細々とではありましたが、お付き合いを続けさせていただくことが出来ました。

-: 唐津を訪れたことで、繋がりができたのですね。

野口: 何年か経ったころ、隆先生から「古希の展覧会のために、種子島で焼かせてくれないか」って連絡が来たんです。
僕のお手本はあの小皿と、昔先生が種子島で焼いたものでした。
そんな僕の作っているものを見て「こんな若者がいるんだな」って認識してくれたんだと思います。
そのうち、二人展をしようっていう話になったり、先生がアメリカや花の木窯で仕事するときには、助手としてついていくようになったりしました。

-: お付き合いも、少しずつ積み上げていったのですね。
そのうちスイッチバックの窯も生まれる。

野口: 見よう見まねで作っていたとき、穴窯で2ヶ月に1回焼いていたんです。
売るあてもないのに(笑)。

-: 見よう見まねで2ヶ月に1回窯を焚いていることに驚きです。



窯がパカっと宙に浮けばいいのに・・・

野口: で、火前はよく焼けるんですが、煙突側が焼けていないということがよく起きていて、焼いている途中に窯がパカっと宙に浮いてクルッって、ひっくり返ったらいいのになって思っていたんです。
ドラえもんの世界です(笑)。
その時は空想だったのですが、アメリカで、初めて水平の薪窯を見たときに「水平なら、自分の考えを実現できるかも」と、今のスイッチバックの形を考え付きました。
それを、中里先生に図を描いて「どう思いますか?」って見せたら「今すぐ作りなさい」って。
「分かりました。今すぐ作ります」ですよ。

-: うまくいくまで、時間はかかりましたか。

野口: 1回目、温度が上がりきらなくて、思ったような焼き物ができたわけではないのですが、スイッチバックそのものはうまくいきました。
原理を実証することはできたので、あとは精度でした。
二回目には煙突を変えましたし、色々試しながら、軌道に乗り始めたという感じです。



世界各地で吸収、影響を受けながら

-: 野口さんはたまに海外に行かれていますね。
水平の薪窯のように、新たな発見もあるのではないですか。

野口: アメリカの北アリゾナ大学にスイッチバックキルンを作りましたが、僕にとって大変勉強になりました。
みんな、考え方が何にもとらわれていないんです。
僕なんて穴窯は傾斜がないといけないと思い込んでいました。
そういう窯の構造も勿論、道具にしても合理的です。
僕の仕事の仕方も随分影響を受けています。



種子島の土が大好き

-: 野口さんが仕事をする上で大事にしていることはどのようなことですか。

野口: やりたくて選んだ仕事です。
基本的には作りたいものを作りたい。

-: 野口さんの作りたいものとは?

野口: 時期によって変わりますが、その時そのときの自分に正直に作っていきたいと思っています。
以前は中里先生に染まりきっていて、昔の中里先生の仕事を一生懸命真似ていましたが、今はそうではないものも作っていきたいと思っています。

-: どのようなものですか?

野口: 種子島の土が大好きなので、その土がうまく活きるようなスタイルを自ら作り上げていきたいです。
無理に変なものを作るのではなく。
種子島の土は肌理が細かく、意外と薄作りができるので、薪で焼いた力強さを失わずに繊細な感じやシャープな感じを出せればいいですね。
また次回は別のことを言っているかもしれませんけど(笑)。

-: 土の力強さと、造形の繊細やシャープの同居。
僕が野口さんの仕事で好きなところです。



新たに得るもの、持ち続けてきたもの

野口: ラインの流れや、エッジの立ち具合はサーフボードの時の印象を持ち続けています。
須恵器なんかも好きです。

-: 既に、須恵器の影響を感じさせるものもありますね。

野口: あと、弥生の肌、ラインも好きです。
最近は、古いガラスにも興味が出てきました。

-: これから、していきたいこと何かありますか。

野口: 今どっぷり仕事にはまっています。
あまり周りのことは気にせずに、そして自分に正直にもの作りに集中したいと思っています。

-: 展示会に向けて何かお言葉いただけますか。

野口: ほぼ全て種子島の土で作りました。
今、自分がはまっているのが、緑の焼〆です。
是非見ていただきたいです。

-: 水垣さんが「野口さんの焼き物好きなので、宜しくお伝え下さい。お目にかかるのを楽しみにしています」って。

野口: 水垣さんの仕事は写真でしか見たことないのですが、僕はほとんど焼〆なので、バランスが取れて良い組み合わせじゃないかなと思います。
宜しくお願いします。


(注1) もともと種子島にあった能野焼(よきのやき)を復活させようと考えた島の有志が、陶磁学者の小山富士夫先生に相談し、小山の推薦によって来島した中里隆先生がはじめたのが種子島焼です。命名は小山先生によるもの。
鉄分の多い土を生かした、うわぐすりを使わない焼き〆が中心で、原始的な、土と炎との造形が特徴です。
<野口悦士さんのWebsiteより>

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